ライブレポとしてはだいぶ遅くなってしまったのですが、7月22日に行われた豊田勇造さんのサポートギターは無事大盛況のなかで終えることが出来ました。
会場は烏丸五条にある仕出し屋さん「松粂」さんにて。
京都には仕出し屋さんといって旅館やお茶屋(舞妓さんや芸妓さんが舞を披露するお店)に料理をお届けするお店が沢山あります。「松粂」さんはそういった仕出し屋さんのなかのひとつ。
この松粂さんで演奏するのは実は2回目。
三年前にもやはり勇造さんに誘われて横でギターを弾かせてもらいました。
松粂さんでのライブではなんと松粂さんのお弁当がついています。これが本当に美味しい。
そんな美味しい食べ物に囲まれた勇造さんは選曲もちょっと工夫をされ、全般をとおして「食べ物」が出てくるうたを歌われました。
「マンゴーシャワーラブレター」では「マンゴー」。「再会」では「ざくろ」。「雲遊天下」では「パン」などなど。このことに気づいたお客さんはいたとかいなかったとか。
終演後、松粂さんでゆっくりと打ち上げをさせてもらったのですが、松粂さんのご主人の息子さんが高校生でギターをやっていて、彼が打ち上げにやってきて「いつかギブソンを買いたい」とのことを本人から聞いたものですから、勇造さんと僕は本気のギタートークをし始め、ビール片手にいつまでもギター談義が続いたのでした。
楽しかった〜!
勇造さん、松粂さん、本当にありがとうございました!
終戦の日ということで、今回はぼくのおじいさんの話をします。
8月15日、終戦の日。今年は太平洋戦争が終わってから70年。
もちろん僕は生まれてませんし、僕の親さえも生まれていません。
僕の家族ではたった一人だけ、おじいさんだけが、その70年前のその日、
兵士として中国の山奥で終戦の日を迎えました。
戦時中は、国に云われるがまま、海を渡り、食べ物にも不自由しながらひたすら歩かされ、
見上げる空には爆撃機が飛び交い、林には銃弾と迫撃砲の炸裂音が響くなか、
友達はひとり、ひとりと倒れてゆき、敵も味方も人が死ぬところをたくさん見続けて、
それでも前に歩くことしか許されず、大陸の山奥をずっと歩き続けたそうです。
1945年8月15日は朝から飛行機が一機も飛ばない晴天だったそうです。
そのとき、おじいさんはまだ23才。(今の僕よりも若い)
おじいさんにとっても、どの国にとっても、とても長い戦争の終わりの日でした。
国同士の戦争が終わっても、おじいさん達はすぐに日本へは帰れません。
揚子江の近く、洞庭湖という大きな湖のそばで1年半、捕虜収容所で暮らしていたそうです。
僕の数少ない歌の中に「森田氷室店」という歌があって、そのなかで、森田の代々のおじいさんをひとりひとり紹介するところがあるのですが、その僕のおじいさんのことを歌っているところを書き出してみたいと思います。
…3代目のおじいさん 秀雄おじいさんは
京都生まれ 京都育ち 根っからの京都人
二十歳のころに 戦がはじまり
「赤紙」一枚 中国の山奥へ
とにかくよく歩かされたそうな 草木を食べて飢えをしのいだそうな
ある日迫撃砲がおじいさんの目の前に飛んできた
不発弾だったから良かったものの 蹴っ飛ばしてやったそうな
とにかく大変な20代だった
ある朝目覚めたら真っ青な空
飛行機が飛ばない日がやってきた
1945年8月15日の昼だった
戦終わってもすぐには帰れず
揚子江のほとりで一年半
捕虜生活続けてた
どんなに故郷が恋しかったろうか
帰ってきてから氷屋の仕事
オート三輪 自転車で
山奥の料亭まで氷を運んでいたそうな…
この歌ではラグタイム調のギターの伴奏で出来るだけ明るく歌おうと思っているのですが
いつも歌うとき、秀雄おじいさんのところだけ、なぜか胸のなかに熱いものがこみ上げてきます。
それは、戦争の話をし終わったあとに「もう戦争はいやだ」とつぶやいたおじいさんの言葉が残っているからかもしれません。
この曲は、戦争での出来事を話す時いつも「つい昨日に起きたことのように」鮮明に語ってくれたおじいさんと一緒につくったようなものです。
その記憶は僕の記憶ではないけれど、おじいさんが語ってくれたことで、おじいさんの記憶が僕の中に宿ることになりました。
そういうとても親しい人の話から、8月15日という日の意味を考えてみたい。
何年たってもつい昨日のことのように。
嬉しいことも、悲しいことも。
記憶を受け継いでいくこと。
記憶とは井戸のようなものだと思います。
放置し枯れさせてしまえば水は出ない、
しかし手間をかけ手入れをし続けたら、井戸はいつも新しい水をくれます。
人の営みに寄り添い、命をつなげてくれる。
そんな記憶を大切にしたいです。
アコースティックギタリストTommy Emmanuel の「Angelina」という楽曲のカバーをしました。
Tommy Emmanuelはオーストラリア出身のギタリスト。Chet Atkinsの最後の弟子として知られ、カントリーギターの速弾きで名を馳せ、世界的にも著名なギタリストの一人です。
この曲を初めて聞いたのは23才ぐらいの時で、ずっとカバーしたいと思っていました。
ICレコーダーで生音を録音して、薄いリバーブをかけてます。
ぜひ聞いてみてください。
京都河原町に新しくリニューアルした「BAL」ビルを見に行きました。
10年前に閉店した丸善が入ったことでもちょっとしたニュースになりました。
京都の丸善といえば梶井基次郎の「檸檬」という短編小説のなかで、悶々とした日々を過ごす若き主人公が丸善の本棚にレモンを置いてそのレモンがドッカーンと爆発する図を夢想して帰るという少々パンクな内容の小説の舞台として知られていました。
旧丸善が閉店したときには、小説「檸檬」ファンの人たちが沢山レモンを置いて帰ったと言います。
BALビルでは開店1日目に早くもレモンを置いたお客さんがいたそうな。
なかの店舗も、新しくもレトロな雰囲気造りをしていて良かったです。
「地に足がつく」という言葉があって、僕の好きな言葉でもあるのですが、この言葉って考えてみると不思議だなと思います。人間は二本足で、どう考えても地に足をつけて暮らしていく生き物なのに、その当たり前のことを、わざわざ思い返すための言葉のような印象を受けます。
思えば人間は(特に男は)高いところへ、大きいものへ向かっていく習性があるのではないかと思われます。
空を飛んだり、高いビルを立てたり。時代は進化するということを疑いもなく信じ、突き進む。
それはバベルの塔の時代から変わっていないのかも知れません。
石を積み上げて、見晴らしの良い景色を求めて、飽くことがない。
そして、最後には神様から手痛い戒めを受ける。
21世紀になっても、やっぱり人間は高いものが好きで、大きなものが好きです。
だから、やたら高いタワーを作るし、やたらでかい建物をつくろうとする。
人間は宙に浮いたまま生きることは出来ないのに。
だからこそ、という訳ではないかも知れませんが、「あっこの人、地に足つけてがんばってるな」と思う人と出会うととても嬉しくなります。
そして、それが友人であればなおのことです。
大学時代、とても仲が良かった東北出身の僕の友人は、誰もが聞いたことがあるような大手マスコミで働いたのち、思うことがあり、このたび退職し、現在福島県に移住し、自分なりの新しいメディアを立ち上げようとがんばっています。
彼がいま発信しているメディアは「さばみそ通信」という小さなホームページです。
なぜ「さばみそ通信」という名前かという命名に関して、彼が説明している文章がとても魅力的ですのでご紹介したいと思います。
少々引用します。
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さばみそ通信について
さばみそ通信は福島県いわき市に突如として現れた弱小通信社です。編集長も社長もいません。記者が一人でやっています。主に福島発のものを中心に、さばみそを作るくらいの手間をかけて書いていきます。
取材をして記事を書くことは、料理に似ています。材料を集め、細かく刻んだり、一緒に煮込んでみたり、あるいは少しスパイスを効かせてみたり……。お客さんが食べられるようにして提供します。きれいな盛りつけも必要です。なので、ある程度の手間はかかります。
この点、大手メディアはすごい。コックやシェフがいて、多くの見習い料理人がいて、馬鹿でかいオーブンやら冷蔵庫やらがあります。料理人にはそれぞれの持ち場があり、一日中野菜を切り続ける人や天ぷらばかり揚げる人、献立を考え続けている人なんかがいて、昼夜の別なく料理を提供し続けています。
我が方はというと、簡単な鍋と包丁、ごくごく平凡な男がひとりいるだけです。食材集めから仕込み、調理から盛りつけにいたるまで、一人でやります。食材は目の届く範囲のもの。調理は自己流で味見をしながら。盛りつけはできる限りていねいに。
コンビニ弁当のような記事ではなく、自分なりの味がでるような記事を心がけていきます。
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この文章を読んで、ああ、こんな友人をもって僕は幸せだなあと思いました。
高いところからではなく、大きなものとしてではなく、「さばみそ」を作る主夫のような気持ちで
彼は福島から、原子力に依存するこの国と向かいあおうとしている。
見たくもない現実やどうしようもない気持ちもあるかもしれないけれど。
僕には到底出来ない、とても勇気のいる覚悟を持って、彼は一人でがんばっているんだな。
こういう、地域に生きる人の強さを、大きな立場にいる人間はもっと分かってほしいなーと思います。
これからの「さばみそ通信」の成長が楽しみです。
応援してるよ!木田くん!
(↑2017年さばみそ通信あらため、”とまり木"と題してホームページを開設してます。)
僕は沖縄が好きで今までに何回か旅をしてきました。
一番印象深い旅は、19才のときに沖縄を旅したときのこと。
リュックサックを背負って現金11万円を財布にいれて、3週間ほど滞在しました。
その旅費には飛行機代も含まれていましたから(20才以下を対象に、キャンセルが出た席を飛行場で安く買うことが出来るシステムが存在したのです)、どうしてそれだけの金額で3週間に及ぶ旅を出来たのか今考えるとちょっと不思議です。
沖縄を旅するバックパッカーはもっぱらゲストハウスを利用します。
沖縄には安いゲストハウスが沢山あって、相場は素泊まりで1000円から1500円くらい。
僕がその旅で利用した一番安いゲストハウスは一泊なんと600円でした。
もっともクーラーも扇風機もなく、ただ二段ベッドがあるだけでしたが。
そんな貧乏旅行でしたが、沖縄本島、久高島、石垣島、そして果ては与那国島まで旅をしました。
久高島の人々には本当にお世話になり、那覇ではバックパッカーと遊んだり、石垣島では旅で知り合った仲間たちと美しいサンゴの海で泳ぎました。
また遠く与那国で見た海の青さは、この世にこんな青が存在するのかと思うほど美しいものでした。
宮古島から本島に戻る船旅では、船長が気を利かせてくれて、操縦室を見せてくれるという一幕もありました。
温かい沖縄の人々と、美しい海の景色を見て、「ああ、沖縄が日本にあってよかったなあ」と心底思う旅でした。
なかなかあんな旅は出来ないけれど、手元に一冊大好きな沖縄の写真集があって、それを見ては沖縄を旅しているような気になります。
その写真集の名前は「島の時間」。撮影者は山下恒夫さんという方。
三線を弾くおばあとおじいの笑顔、島の防波堤で夕日を眺める少女、海で戯れる少年たち、少し朽ちた離島の散髪屋、御嶽と呼ばれる祈りの場所で先祖の霊を迎える古老の姿。
そんな生活になじんだ写真をみると、沖縄の人々のゆったりとした暮らしぶりに心が和み、19才の時に出会った沖縄を思い出します。
ああ、また沖縄に行ってみたくなりました。
昨年2014年は、苫小牧、東京、神戸、鳥取、大阪、北九州と日本のいろんなところで演奏しました。
シンガーの飯島アツシさんとピアニスト兼シンガーのたかぎふみのりさんと僕、という3人組でツアーをしていました。地方の温かなお客さんの前で演奏できた喜びはもちろん、ご当地の美味しいものを沢山食べることが出来たのも楽しい思い出です。
さて、去年の秋にその3人行脚のツアーがいったん終了して、アツシさんが新しくアルバムを作り、3人だけで演奏した曲が一曲アルバムに入ることになりました。
タイトルは「君にありがとう」。
作詩がアツシさん、作曲がたかぎふみのりさん、アレンジは僕が担当しました。とても楽しい曲に仕上がっています。(失恋の歌なのですが…)
CDはタワーレコードでも入手出来ますし、インターネットではAmazonや楽天で購入することが出来ます。
3人とも仕事をしながら演奏活動をしているので、少しでも多くの人の元へCDが届いてくれると嬉しいです。
ご興味のあります方、ぜひどうぞよろしくお願いします!
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また3人でライブやりたいなー!!
「君にありがとう メイキング映像」
3人とも楽しそうです。
8月も最終日ですね。
みなさまこの夏は楽しく過ごされましたか?
こちら京都はセミの鳴き声が静かになり、夜になると秋の虫たちがリンリンと鳴き始めています。
僕はなんだかあっという間に夏が終わってしまった感じです。トホホ。
やっぱり夏は一度は海にでも行ってパーッと騒ぎたいですね。
スピッツの「夏が終わる」という曲をかけながら、このブログを書いている今日このごろです。
(注 . 上の写真は本文と全く関係ありません。)
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