約束

 

見たくもない現実ですが、この国のありかたがものすごい勢いで舵取りがなされ、強引なやり方で変えられようとしています。


まず僕が一番理解に苦しむのは、憲法に違反している法律を国が認めようとしていること。

 

改めて憲法の前文を読み直してみましょう。

 

「日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたつて自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に在することを宣言し、この憲法を確定する。」

「われらは、これに反する一切の憲法、法令及び勅令を排除する」

(日本国憲法前文より抜粋)

 

憲法は、いわば民主主義国家における法律の王様。

絶対に侵してはいけない国の「約束」です。

それは親が子どもに「人を傷つけたらいけないよ」と言い聞かせるレベルの、

とても基本的な社会の約束なのです。

そしてその社会の約束こそが憲法であり、社会を社会たらしめているものだと言えます。

しかし、この国は、その約束としての憲法を棚上げして、解釈改憲をして骨抜きにし、海外派兵と先制攻撃を可能とする立法を数の力で押し進めようとしている。


この部分に僕は強い違和感を感じます。


戦後70年間、この国が大切に守ってきたこの「約束」がどうして生まれ、また守られてきたのか。

その過程を、戦後の平和を生きる僕たちはちゃんと自分たちの言葉で考える必要があるのではないでしょうか。

 

多くの若者が戦地に行かされ、多くの人々を傷つけ、そしてこの国においても多くの人々が犠牲になった過去があること。

その苦しい記憶の中からこの憲法が生まれたということ。

武力ではなく、文化や経済で互いの理解を深めようと努力してきたこと。

そして、その努力のおかげで日本は誰一人、戦場で人を殺すことも殺されることもなかったということ。

 

歴史を学び、先人たちの教えを伝え続けることこそ、いま僕たちがこの時代に生きる使命なのではないのでしょうか。

 

決して忘れてはならないこと。

それは70年前に誓った「約束」には、かけがえのない多くの命の記憶が込められ、受け継がれてきたということです。


僕は拳をあげて相手を怖がらせるのではなく、手を握る人間でありたい思います。

そして、暴力の連鎖、悲しみの連鎖が決して繰り返されないように、心から願います。

 

           天安門事件、戦車の前に立つ市民。
           天安門事件、戦車の前に立つ市民。
       1945年8月6日 原爆ドームの前で立ちすくむ男。
       1945年8月6日 原爆ドームの前で立ちすくむ男。

Save The Children が制作した「もしロンドンで戦争がはじまれば」という90秒の映像