記憶

終戦の日ということで、今回はぼくのおじいさんの話をします。

 

8月15日、終戦の日。今年は太平洋戦争が終わってから70年。

もちろん僕は生まれてませんし、僕の親さえも生まれていません。

 

僕の家族ではたった一人だけ、おじいさんだけが、その70年前のその日、

兵士として中国の山奥で終戦の日を迎えました。

 

戦時中は、国に云われるがまま、海を渡り、食べ物にも不自由しながらひたすら歩かされ、

見上げる空には爆撃機が飛び交い、林には銃弾と迫撃砲の炸裂音が響くなか、

友達はひとり、ひとりと倒れてゆき、敵も味方も人が死ぬところをたくさん見続けて、

それでも前に歩くことしか許されず、大陸の山奥をずっと歩き続けたそうです。

 

1945年8月15日は朝から飛行機が一機も飛ばない晴天だったそうです。

そのとき、おじいさんはまだ23才。(今の僕よりも若い)

おじいさんにとっても、どの国にとっても、とても長い戦争の終わりの日でした。

 

国同士の戦争が終わっても、おじいさん達はすぐに日本へは帰れません。

揚子江の近く、洞庭湖という大きな湖のそばで1年半、捕虜収容所で暮らしていたそうです。


僕の数少ない歌の中に「森田氷室店」という歌があって、そのなかで、森田の代々のおじいさんをひとりひとり紹介するところがあるのですが、その僕のおじいさんのことを歌っているところを書き出してみたいと思います。

 

…3代目のおじいさん 秀雄おじいさんは

京都生まれ 京都育ち 根っからの京都人

 

二十歳のころに 戦がはじまり

「赤紙」一枚 中国の山奥へ

とにかくよく歩かされたそうな 草木を食べて飢えをしのいだそうな

 

ある日迫撃砲がおじいさんの目の前に飛んできた

不発弾だったから良かったものの 蹴っ飛ばしてやったそうな

とにかく大変な20代だった

 

ある朝目覚めたら真っ青な空

飛行機が飛ばない日がやってきた

1945年8月15日の昼だった

 

戦終わってもすぐには帰れず

揚子江のほとりで一年半

捕虜生活続けてた

どんなに故郷が恋しかったろうか

 

帰ってきてから氷屋の仕事

オート三輪 自転車で 

山奥の料亭まで氷を運んでいたそうな…

 

 

この歌ではラグタイム調のギターの伴奏で出来るだけ明るく歌おうと思っているのですが

いつも歌うとき、秀雄おじいさんのところだけ、なぜか胸のなかに熱いものがこみ上げてきます。

 

それは、戦争の話をし終わったあとに「もう戦争はいやだ」とつぶやいたおじいさんの言葉が残っているからかもしれません。

この曲は、戦争での出来事を話す時いつも「つい昨日に起きたことのように」鮮明に語ってくれたおじいさんと一緒につくったようなものです。

その記憶は僕の記憶ではないけれど、おじいさんが語ってくれたことで、おじいさんの記憶が僕の中に宿ることになりました。

 

そういうとても親しい人の話から、8月15日という日の意味を考えてみたい。

 

何年たってもつい昨日のことのように。

嬉しいことも、悲しいことも。

記憶を受け継いでいくこと。


記憶とは井戸のようなものだと思います。

放置し枯れさせてしまえば水は出ない、

しかし手間をかけ手入れをし続けたら、井戸はいつも新しい水をくれます。

 

人の営みに寄り添い、命をつなげてくれる。

そんな記憶を大切にしたいです。